2011.09/17 [Sat]
不幸が安心、幸せが恐い人もいる
心理カウンセリング講座の中で、
「不幸が安心、幸せが恐い人がいる」 という話がありました。
上手く行くこと、成功すること、幸せになることに、
違和感や抵抗を感じてしまう。
そして、また不幸に戻るのではないかと心配になり、
それが恐怖になってくる。
そんな人は、少し上手く行っても、
まるで、失敗するのを望んだかのように、
元の不幸な状態に戻ってしまう。
そして、それが自分の居る場所、安心な場所と想う。
それが、自分に相応しいと感じる。
不幸には慣れている。ずっとそうして生きてきたのだから・・・
その話の後で、グループディスカッションをということになり、
グループの中で、話し合ったところ、
「そういうのって、まったく理解できない感覚」
「そういう人がいるって、今まで知らなかった」
という声を聞いて、びっくりしました。
幸せな環境で育ってきたのでしょうが、
たぶん周りには、そういう人もいたはずです。
そこまで、大げさでなくても、
自分で作った枠から出られずに苦しんでいる人は多いはず。
それに、ドラマお宅のわたしに言わせれば、
そういうテーマを扱ったドラマは、たくさんあるはず!
わからないという人を責めるつもりはまったくありませんが、
なんだか、心配になりました。
もしかしたら、自分自身の中にも、
そういう思い、あるいはそれとは逆の思いがあることに、
気付いていないのかも・・・と余計なことを想いました。
スピリチュアル的に考えてみようと思っていると、
ちょうど読んでいた本の中に、同じような事例が出てきました。
「不幸が安心、幸せが恐い」 という気持ちの根源には
「自己に対する無価値感」 があるそうです。
無価値感は私たちと自分の長所の間に立ちはだかる、油断のならない障害物だ。
それは罪悪感、偽り謙虚さ、さらにはプライドの形を装って姿を隠す悪賢い泥棒であり、私たちが神聖な存在としての可能性を十分に表現する機会を奪う。 (本文引用)
読んで、なるほどと思いました。
つまり、わたし流に言えば、
自分を、何ができてもできなくても価値ある存在と認め、
大切に想い、愛することができないと、
抜け出すことができない心の罠です。
そういう人も、心のどこかでは、
もっと幸せになりたい、もっと成功したいと思っています。
でも、いざそのステージに上がる段になると、心が尻込みしてしまう。
勢いで、ステージに上がっても、落ち着かず、
早く降りたいと、今度は願ってしまう。
そして、高望みした自分が馬鹿だった。
今度から、無理は止めよう。
そんなふうに、思ってしまう。
無価値感が、自分が輝くステージに上がることを許さないのです。
自分が幸せになる、あるいは成功する許可を
自分自身に与えていないのです。
その根源には、その人の過去の体験が
大きく影響していることが多いのです。
もしかしたら人生のあるとき、誰かに自分を否定されることを言われ、
それがずっと、自分の信念のように意味を持ち、
強化されてきたのかもしれません。
でも時間が経ち、成長した今は、
もう、昔の弱いダメな自分ではないはずです。
いろいろなことができるようになっているにも関わらず、
意識は昔の信念に囚われてしまいます。
その根源を見つけ、変えることができれば、
その人は、変わることができるでしょう。
そして、ときにその根源が、今世でなく過去世にある場合もあります。
そんなときは見つけるのは厄介かもしれません。
わたしのお教えしているコースの中には、
そういう根源を見つけるワークもあり、
それを使っていくつかの自分でも気付いていなかった制約を見つけ、
解除することができました。
また、根源を見つけなくても、変わることができます。
自信を持てる経験の積み重ねから、
信念を上手く変更することができれば、同じように解除できます。
そんなふうにして、誰しも成長してきたのだろうと思っていました。
でも、そうではない人もけっこういるのかもしれません。
勉強になりました。
もしかしたら、もっと大それたことだと捉えただけかもしれませんね。
ただ、心配なのは、逆パターンの信念を持った人です。
「自分は、価値ある存在だから、失敗はあり得ない。
成功や幸せは手に入って当たり前のもの」
そういう信念を持っている人。
もし、何かで躓いたらたいへんです。
ぼろぼろになってしまうか、あるいは犯罪者になってしまうかも。
学生時代からエリートコースまっしぐらでがんばってきた人が、
挫折から犯罪を犯してしまうケースは、そういうパターンです。
自分の失敗の原因を外に求め、周りを責めることで、
自分を保とうとするのです。
彼らは、過去のある時点で、
前者とは逆に、自分は優れた存在であり、幸せが保証されているという、
信念を持つことになったのです。
スピリチュアルで言う、
「人はすべて価値ある存在である」 というのは、
「失敗しても愚かでも価値ある存在である」 という意味で、
「価値ある存在だから、そう思えば失敗しない」 という意味ではありません。
もともと
失敗や愚かという判断も、私たちが作り出した幻想なのですから。
人は誰で多少は、好ましくない信念を持っています。
そして、自分の成長にストップをかけてしまう。
それらは、一見今世で持った信念のように思えますが、
実は、過去世から受け継いだテーマだったのかもしれません。
それを見つけて変えること、
それが私たちが生まれてきた目的かもしれない。
そう思えてならないのです。
今日も、ご訪問ありがとうございます
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「不幸が安心、幸せが恐い人がいる」 という話がありました。
上手く行くこと、成功すること、幸せになることに、
違和感や抵抗を感じてしまう。
そして、また不幸に戻るのではないかと心配になり、
それが恐怖になってくる。
そんな人は、少し上手く行っても、
まるで、失敗するのを望んだかのように、
元の不幸な状態に戻ってしまう。
そして、それが自分の居る場所、安心な場所と想う。
それが、自分に相応しいと感じる。
不幸には慣れている。ずっとそうして生きてきたのだから・・・
その話の後で、グループディスカッションをということになり、
グループの中で、話し合ったところ、
「そういうのって、まったく理解できない感覚」
「そういう人がいるって、今まで知らなかった」
という声を聞いて、びっくりしました。
幸せな環境で育ってきたのでしょうが、
たぶん周りには、そういう人もいたはずです。
そこまで、大げさでなくても、
自分で作った枠から出られずに苦しんでいる人は多いはず。
それに、ドラマお宅のわたしに言わせれば、
そういうテーマを扱ったドラマは、たくさんあるはず!
わからないという人を責めるつもりはまったくありませんが、
なんだか、心配になりました。
もしかしたら、自分自身の中にも、
そういう思い、あるいはそれとは逆の思いがあることに、
気付いていないのかも・・・と余計なことを想いました。
スピリチュアル的に考えてみようと思っていると、
ちょうど読んでいた本の中に、同じような事例が出てきました。
「不幸が安心、幸せが恐い」 という気持ちの根源には
「自己に対する無価値感」 があるそうです。
無価値感は私たちと自分の長所の間に立ちはだかる、油断のならない障害物だ。
それは罪悪感、偽り謙虚さ、さらにはプライドの形を装って姿を隠す悪賢い泥棒であり、私たちが神聖な存在としての可能性を十分に表現する機会を奪う。 (本文引用)
読んで、なるほどと思いました。
つまり、わたし流に言えば、
自分を、何ができてもできなくても価値ある存在と認め、
大切に想い、愛することができないと、
抜け出すことができない心の罠です。
そういう人も、心のどこかでは、
もっと幸せになりたい、もっと成功したいと思っています。
でも、いざそのステージに上がる段になると、心が尻込みしてしまう。
勢いで、ステージに上がっても、落ち着かず、
早く降りたいと、今度は願ってしまう。
そして、高望みした自分が馬鹿だった。
今度から、無理は止めよう。
そんなふうに、思ってしまう。
無価値感が、自分が輝くステージに上がることを許さないのです。
自分が幸せになる、あるいは成功する許可を
自分自身に与えていないのです。
その根源には、その人の過去の体験が
大きく影響していることが多いのです。
もしかしたら人生のあるとき、誰かに自分を否定されることを言われ、
それがずっと、自分の信念のように意味を持ち、
強化されてきたのかもしれません。
でも時間が経ち、成長した今は、
もう、昔の弱いダメな自分ではないはずです。
いろいろなことができるようになっているにも関わらず、
意識は昔の信念に囚われてしまいます。
その根源を見つけ、変えることができれば、
その人は、変わることができるでしょう。
そして、ときにその根源が、今世でなく過去世にある場合もあります。
そんなときは見つけるのは厄介かもしれません。
わたしのお教えしているコースの中には、
そういう根源を見つけるワークもあり、
それを使っていくつかの自分でも気付いていなかった制約を見つけ、
解除することができました。
また、根源を見つけなくても、変わることができます。
自信を持てる経験の積み重ねから、
信念を上手く変更することができれば、同じように解除できます。
そんなふうにして、誰しも成長してきたのだろうと思っていました。
でも、そうではない人もけっこういるのかもしれません。
勉強になりました。
もしかしたら、もっと大それたことだと捉えただけかもしれませんね。
ただ、心配なのは、逆パターンの信念を持った人です。
「自分は、価値ある存在だから、失敗はあり得ない。
成功や幸せは手に入って当たり前のもの」
そういう信念を持っている人。
もし、何かで躓いたらたいへんです。
ぼろぼろになってしまうか、あるいは犯罪者になってしまうかも。
学生時代からエリートコースまっしぐらでがんばってきた人が、
挫折から犯罪を犯してしまうケースは、そういうパターンです。
自分の失敗の原因を外に求め、周りを責めることで、
自分を保とうとするのです。
彼らは、過去のある時点で、
前者とは逆に、自分は優れた存在であり、幸せが保証されているという、
信念を持つことになったのです。
スピリチュアルで言う、
「人はすべて価値ある存在である」 というのは、
「失敗しても愚かでも価値ある存在である」 という意味で、
「価値ある存在だから、そう思えば失敗しない」 という意味ではありません。
もともと
失敗や愚かという判断も、私たちが作り出した幻想なのですから。
人は誰で多少は、好ましくない信念を持っています。
そして、自分の成長にストップをかけてしまう。
それらは、一見今世で持った信念のように思えますが、
実は、過去世から受け継いだテーマだったのかもしれません。
それを見つけて変えること、
それが私たちが生まれてきた目的かもしれない。
そう思えてならないのです。
今日も、ご訪問ありがとうございます






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Re: (^-^)こんばんは
そういうことなのでしょうね。
ありがとうございます。
いろいろな心の動きを知ることは、子育てにもとても役立ちます。
もっと、知って欲しいなって思います。